VIVIENNE WESTWOOD

ヴィヴィアン・ウエストウッド自伝 書評

 

 

 

この書籍は2022年12月29日ロンドンで亡くなった、生きる伝説とまで言われ、
世界に様々な影響を与え続けたファッションデザイナー、
ヴィヴィアン・ウエストウッド、彼女の生涯を本人とともに
振り返る一冊である。

 

 

 

ヴィヴィアン・ウエストウッド(以下、ヴィヴィアン)は
同名のファッションブランドであるヴィヴィアン・ウエストウッドの創設者であり、
パンクの女王と呼ばれ、60年以上もの長い間ファッション界に君臨し続けていた。

 

 

 

著者はそのヴィヴィアン本人、そして作家であり俳優でもある
イアン・ケリー(以下、イアン氏)である。

 

彼の数年間に渡るヴィヴィアンへの取材がこの本の基盤になっている。
さらに、彼はヴィヴィアンの夫、子供などの家族、それまでの仕事仲間
(ヴィヴィアン・ウエストウッド社の人に限らず、モデルや活動家……)など
様々にヴィヴィアンと関わりのあった人々に取材を行い、
ヴィヴィアン本人の発言とともに記した。

 

本書は大きく分けて、ヴィヴィアンの発言と共著者であるイアン氏による
文章の二つで構成されており、ヴィヴィアンの幼少期から刊行当時に至るまでの、
社会とヴィヴィアン自身の生き様が描かれる。ヴィヴィアンの発言をイアン氏が
社会や、その他の事象と絡めながら解説を行う。

 

 

 

ヴィヴィアン・ウエストウッド ゴールドレーベル2014年春夏コレクションが
発表される直前から始まる。

イアン氏の視点から見たパリ・ファッション・ウィークの裏側であり、
ヴィヴィアン・ウエストウッドの新作コレクション発表の直前である。

 

 

 

ヴィヴィアンはイアン氏のインタビューに応える余裕もないほど直前まで忙しくしており、
辺りに広げられた作りかけの服に次々と手を入れ、
モデルの登場順や、どのモデルに何を着せるのか、などを決めている。

 

その風景をイアン氏は鮮明な情景描写と疾走感を感じる文章で、
まるで自分がその場にいるかのような感覚になるように描いて
いった。このときのコレクション、2014年春夏コレクションは
「中世の巡礼者の旅路」というテーマで、ファッションショーのタイトルは
「Everything is connected(すべてのことは繋がっている)」で、
気候変動に関して人々が考えアクションを起こすことで世界を
変えることに繋がっているというメッセージが込められている。

 

コレクションの最後には、ヴィヴィアンの3番目の夫である
アンドレアス・クロンターラー(以下、アンドレアス氏)と手を繋いでいるヴィヴィアンも登場した。

 

 

 

1941年4月8日ダービシャーのグロソップでドラ&ゴードン・スウェア夫妻のもとに
ヴィヴィアン・イザベル・スウェア(後のヴィヴィアン・ウエストウッド)が誕生した。

 

本書によれば、ヴィヴィアンが服を自ら作るということを覚えたのは母である
ドラ・スウェアの影響があったのだという。
美術学校に通い、教師をしていた時期もある彼女であるが、
2番目の夫であるマルコム・マクラーレン(以下、マルコム)とともに
1971年にイギリスのキングスロード430番地に「Let it Rock」というレコードを売る
店を始める。
ラリー・ウィリアムという名前のミュージシャンのレコードから始まったという。

 

 

 

ちなみに、初めの夫であるデレク・ウエストウッドとの話は本書以前から
あまり語られてこなかったようである。
ヴィヴィアンには「生きている人に対しては敬意を払う義務があり、亡くなった人に
対しては真実を尊重する義務がある」という考えがあるようで、
それに基づいて人に関しては詳しく言及したり、しなかったりするようだ。
マルコムに関しては以前はあまり語られていなかったが、
イアン氏の取材では今までにない内容まで語るようになった。

 

「Let it Rock」はその後、「Too Fast to Live, Too Young to Die」「Sex」「Seditionaries」と
名前を変えていった。
その間にヴィヴィアンはパンクと呼ばれる、ファッション界に大きな影響を及ぼしたファッションを
マルコムとともに創り上げていく。

 

 

 

ゴム素材やプラスチックなどそれまで、通常服に使われなかった素材を使い、
ダメージ加工を施したり、アップリケ、ブリコラージュなどの手法を用いて
アレンジしていくのである。

 

そして、マルコムはセックス・ピストルズとヴィヴィアンを結びつけた。
最終的に「Worlds End」(「‘」は意図的に外されている)と名称を変えた
ヴィヴィアンとマルコムの始めた店は、現在でもキングスロード430番地に逆回りに
回転する13時間時計とともにある。

 

初めはマルコムを助けるためにデザイナーになったというヴィヴィアン。
公私ともにマルコムとパートナーとして過ごしていたが、
マルコムが音楽に傾倒するにつれて、二人の溝が深くなっていったようだ。

 

 

 

パイレーツ・コレクションを発表する頃には、マルコムはほとんどデザインに関わっていなかったという。
第10章ではそんなパイレーツ・コレクションを発表した頃のヴィヴィアンについてが
描かれている。
パイレーツ・コレクションというのは1981年秋冬コレクションのことだ。
ヴィヴィアンが偶然見かけた海賊の彫刻からインスピレーションを受けたものだ。

 

17世紀の海賊が履いていたズボンを作ろうと考えた。
最終的には何世紀も使われずにいたシャツの型紙を使ったのだという。

 

 

 

このコレクションのタイトルを考えたのはマルコムだったが、作品を作り出したのはヴィヴィアン自身だった。
このコレクションはヴィヴィアン・ウエストウッドの定番の柄の一つであるスクイグル柄が登場するコレクションでもある。

 

アフリカ独特の木版刷りの模様で、ヴィヴィアンのデザイナー仲間である
ジャン=シャルル・ドゥ・カステルバジャックのオフィスをゲイリー・ネスとともに
訪れたときに見かけて取り入れたのだという。

 

そしてこのコレクションの成功はヴィヴィアンにとって、
デザイナーとしての自信をつける重要な出来事だった。
パイレーツ・ルックは映画や舞台の世界などにも影響を与え、
様々な場面で流行した。映画『パイレーツ・オブ・カリビアン』もその一つだという。

このコレクションをきっかけに、ヴィヴィアンは「過去に目を向けて歴史をひも解きながら、
ロマンティックな部分を持ち合わせたデザイナーになる」と心に決めたのだという。

 

 

 

マルコムとの共同経営は継続したものの、ヴィヴィアンはマルコムと一緒ではなく、
独立して仕事をしたいという気持ちを抱くようになった。
しかし、一方でマルコムの発想力を素晴らしいと思うこともあった。

 

1982年秋冬コレクションのノスタルジア・オブ・マッドではマルコムの提案によって
本来服の下につけるブラを服の上からアウターとして着用するという手法が取られた。
そのことをヴィヴィアンは振り返りながら素晴らしい発想力だと称賛を送った。

 

1981年秋冬コレクションであるパンカチュアはヴィヴィアンとマルコムのコレボレーションが
見られる最後のコレクションとなった。

 

 

 

1983年秋冬コレクションであるウィッチーズでは完全にヴィヴィアンが指揮をとり進行した。
実際のところ、マルコムの手掛けた作品もあったものの、
先の尖ったチコ・マルクス風の帽子1点のみであったという。

 

そこからヴィヴィアンが活躍の舞台に据えたのはイタリアだ。
これはウィッチーズ・コレクション直後の、カルロ・ダマリオ(以下、カルロ)との出会いによるものである。

 

 

 

カルロ自身は「ヴィヴィアンを女王にしたかった」のだという。
カルロはヴィヴィアンと初めて会ったときに「パンクは闘いだ」という言葉を
ヴィヴィアンに投げかけ、そこでヴィヴィアンはそこで自らがそれまで行ってきたことが
闘いだったのだと気づいた。

 

他にもカルロはヴィヴィアンの心に響く言葉を持っていた。
例えば(カルロは車に例えて話を展開しており、)世界を変えようとするヴィヴィアンの行動を
相手の動力にしないために、相手を攻撃するのではなく、相手の先を進んでヴィヴィアンを
追わせる必要がある、といった話である。

 

心打たれたヴィヴィアンは、自身の求める質の高い仕事をこなせる下請けが
イタリアには揃っているということもあり、イタリアに移り住んで活動を始めたのである。

 

それまではヴィヴィアンの作ったものにすべてワールズ・エンドの名がついて回り、
利益の半分がマルコムに入るようになっていたが、同じ年にマルコムとは共同経営関係も解消した。

 

 

 

ヴィヴィアンが拠点をイタリアに移していた期間は1983年から1986年までの間である。
この間にヴィヴィアンは3つのコレクションを作った。

 

ヒュプノス、クリント・イーストウッド、ミニ・クリニであり、
どれもストレッチ素材や近未来をモチーフにしておりボディラインを意識する
80年代半ばの文化から人気を集めた。

 

また、ミニ・クリニに関してはウィメンズファッションのシルエットを変えたと高い評価を得ている。
イタリアで認められるようになってからは、再びロンドンに拠点を戻し、
一時閉店していた「Worlds End」で再スタートを切った。

 

 

 

そしてこの時期にハリス・ツイード・コレクションを制作している中で
ヴィヴィアン・ウエストウッドのロゴが誕生する。

 

チャールズ皇太子に似合うセーターを作っていたヴィヴィアンは息子のベンジャミン・アーサー・ウエストウッドが
天文に夢中になっていたということも影響して土星の輪をあしらった図柄を作った。

 

 

 

それをカルロが目にして、ヴィヴィアン・ウエストウッドのロゴにしよう、
と提案したのだった。
そのマークこそ、現在オーブと呼ばれヴィヴィアン・ウエストウッドのロゴになっている。

 

オーブには王権を象徴する宝珠と土星の輪が描かれており、
それはヴィヴィアンの中に常にある伝統と未来の融合を表しているものであった。

 

 

 

当時制作していたハリス・ツイードも伝統的なツイード生地を使用している。
他にも、その後に発表されたポートレート・コレクションでは18世紀の絵画が描かれた
コルセットを作るなど、伝統と革新の融合を行っている。

 

次の転機は、ウィーンとベルリンでファッションに関して教鞭を取ることになったことだ。
その中で教え子として3人目の夫となるアンドレアスと出会ったのだ。

 

ヴィヴィアンが惹かれる人物というのは本人が何度も言うように美しい人ということもあるのだろう。
だが、インタビューを読んでいくと知的好奇心を刺激する人という条件もあるようだった。

 

 

 

それによって、ヴィヴィアンの中に新たなインスピレーションが生まれ、
伝統を織り交ぜた新しいデザインを考案していくのだろう。
本書の中でもヴィヴィアンは「知的好奇心を共有できる人が必要」と話す。

 

2005年『ガーディアン』に掲載された、イギリスの科学者ジェームズ・ラブロックの
インタビュー記事を読んでヴィヴィアンは、人々が「地球を破壊しようとしている現実」に気がついた。
そこから、彼女の活動家としての活動が始まる。

 

 

本書の書き出しにもある2014年春夏コレクションである中世の巡礼者の旅路に繋がる。
他にも、不良少年やテロの容疑者、亡命希望者などの人権擁護活動も行った。

 

そして、時は流れて2022年12月29日、ヴィヴィアンは南ロンドンのクラパムで
家族に囲まれながら安らかに息を引き取った。

 

 

 

81歳のことだった。彼女の世界に与えた影響は計り知れない。


しかし、その一端を垣間見るために本書は最適な一冊となるだろう。


本書は大まかには年代記の形態を取っているが、細かい部分でヴィヴィアンの発言などを
もとにしており、順番が前後している部分もある。

 

気をつけるべきであるが、それを補うためにも文末にヴィヴィアンの年表が付されているため、
参考にしながら読み進めることを推奨する。
また、巻末には「資本主義をストップさせる。」というヴィヴィアンの主張が記されていた。

 

 

 

ヴィヴィアンに倣って、環境破壊を止める必要があることをここでも主張しよう。

 

先の見えない経済成長は環境破壊、ひいては人類の衰退にまで繋がる。
それを阻止するためにも、人々が立ち上がり環境破壊を阻止していく必要があるのだ。
そして、それらの主張をヴィヴィアンが行っていたのは
「すべてのことは繋がっている」という信念のもとにある。

 

 

評者 大金杏菜